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アルディナウペポとは?
全てはケニアから
フェアートレード・野生動物保護活動・東アフリカの子供支援事業・国内福祉事業
東アフリカのケニアからその活動は開始されました。
スワヒリ語でardhiは土地、Upepoは風、そしてCraneは英語の鶴です。『大地と風、そして鶴』です。「大地」は母なる大地アフリカのイメージ、 「風」は神の働きを意味します。 そしてそこに飛んでいる千羽の鶴は吉田千鶴のことです。
Fair Trade
1970年 創始者、吉田愛一郎は世界的には黎明期、日本ではおそらく初めてのフェアートレードを始めました。ケニアからは紅茶、タンザニアからはコーヒーです。
Wild Life
1980年代 考古学者でKWSのトップであった。リチャード リーキー博士の知遇を受けて、野生動物の保護活動にのめり込みました。
Richard Leaky
密猟から動物を守るために、日本の4輪駆動車やレンジャーの支援物資を寄付したり、様々な啓蒙活動も始めました。アフリカでは密猟どころか
欧米人によって公然とスポーツ狩猟が認められていました。アメリカ大統領 セオドア.ルーズベルトTheodore Rooseveltや文豪アーネスト・ヘミングウェイ・Ernest Hemingway が間違って広めたサファリ(スワヒリ語の旅行)を意味する言葉がセレブリティーの象徴だったのです。
それを裏付けるファッションがハンティング ザ ワールドHunting the Worldです。今でもトップファッションブランドです。
吉田愛一郎は娯楽で動物を殺戮する、スポーツファッションを快く思いませんでした。
ヨーロッパにも動物の殺戮を深く悲しむファッションデザイナーがいました。
イタリアのファッションデザイナー、フランコフェラーロです。彼はよくサルジニア島でダイビングを楽しむのですが、決して水中銃を使いません。代わりにカメラを携え美しいマリーンライフを映像にしました。
そんなフランコの考え方と、娯楽で動物を殺すことに異を唱え方が、Don’t Shoot with Guns.Shoot with Cameraのスローガンをクリエイトし、そのスローガンをブランド名にしたファッションブランドGreenishが立ち上がりました。後に日本のデザイナー小栗壮介Sosuke Oguriも加わり、エコロジックなカジュアルファッションが登場しました。
さらに三菱自動車、いすゞ自動車なども4輪駆動車を寄付して密猟の阻止に協力したり、三菱銀行グループもクレジットカードを作り応援しました。
ケニアの大統領 ダニエル・モイも敬意を表し、昭和天皇崩御の弔問の際にアフリカ旅行を企画し始めた日本交通公社、現在のJTB社長やカメラでシュートする運動に共感したコニカカメラ現在の両社長とGreenishの吉田愛一郎と会談を持つなどしながら、動物保護の運動は世界的に高まりました。
Save Children in Kenya
そのころ、ケニアに旅行中の吉田愛一郎の母、吉田千鶴はおびただしい数の浮浪児を見て、東アフリカで本当に困っているのは子供たちだとして、アフリカの子供を救う会(アルディナウペポ)を立ち上げました。
そして遂に、ナイロビ郊外のダゴレティと呼ばれるスラムに、グリニッシュハウスという名の孤児院を建設しました。給食プロジェクトを立ちあげました。そのご飯は煮込みやカレーライスで、それは吉田チャクラ(ごはん)と皆に呼ばれ、子供たちは大はしゃぎ、大人たちはそれを見て涙したものでした。その後も吉田千鶴は職業訓練校の設立、農業プロジェクトを成功させそのプロジェクトをアメリカのFTCという大きな組織に任せ、自らはもっと奥地のウガンダのグル地方に向かいました。ス−ダンと国境を接するグル地方は、戦禍の真っただ中で子供たちはゲリラに拐われて軍事利用されていました。母はその子達を助けるためにシェルターをつくり、自立のための職業訓練、給食を続け子供たちを守りました。
最初の事業はケニアナイトビのダゴレッティ地区に1994年に建設した孤児院グリニッシュハウスである。孤児院建築後にはその運営に当たり、給食や職業訓練に力を入れて、2002年にはサイディアプラハ、ラッキーアカデミーなど識字教育にも力を注ぎ、事業は完全に軌道に乗りました。それらの資金にはフェアートレードのケニアティーの収益があてられたのです。
FTC
ダゴレティチルドレンセンターの成功を見届けて2003年5月、施設をアメリカのNGO Feed The Childrenにその地を任せ、吉田千鶴は子供たちがより困難な人生を送っている戦争の地、北ウガンダと南スーダンと国境に向かいました。
Save Children Uganda
そこでNight Commuterと呼ばれる子供たちを保護するためです。ナイトコミューターとは夜になると襲ってくる反乱軍から逃れるために毎晩何キロもの道のりを歩いて町に避難する子供の列のことです。
吉田千鶴は子供たちを助けるために、ウガンダグルの若き指導者、自らも子供時代、反乱軍に誘拐され、少年兵に仕立てられたが、奇跡的に生きて脱出した経験のあるUYAPエマニエル・ムワカの協力を得て
テオコノ(カボチャ)と呼ばれる子供たちのシェルターを建設して多くの子供たちを反乱軍IRAからその命を守りました。
ケニアの調停で停戦協定がなされると一定数の少年兵が解放され故郷の村に帰ってきました。帰ってきても何の教育も受けず、戦争に明け暮れていた彼らは平和の村では働く場がありませんでした。「彼らの手に職をつけなければならない」吉田千鶴は早速、職業訓練校を開設しました。
Aiichiro Yoshida
(Age 64 /Zama city, Kanagawa)
Chizu Yoshida
(Age 86 /Zama city, Kanagawa)
The Yoshidas were conducting such activities as investing the proceeds from their trading business with Africa in the protection of wild animals. In 1994, in Nairobi, they built an orphange for the children of rangers who were shot and killed by poachers and the children of parents who were killed in inter-tribal conflict. This facility takes in disabled children as well as orphaned children. In Uganda, which was attacked by Sudan, they also built a shelter to protect children from being abducted and forced to serve as child soldiers or comfort women. When the war ended, they built, on the same site, an occupational training school that makes clothing. They have been carrying out these and other activities for the people of East Africa for close to 40 years.
吉田千鶴の生涯
2020年4月23日、職業訓練校の卒業式を見届けるように吉田千鶴は95歳で天に召されました。
2020年アルディナウぺポは財団法人アルディ・ナ・ウペポとなり、活動拠点は日本をはじめアジア地域にも広げます。
一方、ケニアから始まったアフリカの事業はテラルネサンスの創設者鬼丸昌也に引き継がれ、ウガンダ、南スーダン、コンゴに活動が広がるでしょう。
千鶴の千羽鶴
吉田千鶴の逝去を知ったウガンダの女性から、なにか形見のようなものがほしいとの連絡を受けました。母の居室を見渡しても質素な生活をしていた母は形見になるような物を残してはいませんでした。しかし私は数多く寄せられている様々な書状の山の上にちょこんと乗っていた折り鶴を見つけました。しかしその鶴は日本の鶴とは少し違う冠鶴でした。
日本における第一歩とこれからの10年
生前吉田千鶴は順調に発展して行くアフリカ諸国から日本を見て、
自分の国の相対的凋落を見過ごしてはいませんでした。
「日本を何とかしなければならない」
生前の母の思いが遺品を整理するにしたがって湧き上がってきました。
既にアルディナウぺポは財団法人アルディ・ナ・ウペポに昇格する間際でしたが、
「自分たちでは行動しない財団より、実際に福祉事業に自ら携わる財団法人にハードルを上げよう」
抑えきれない何かが吹き上がり、このたび財団法人アルディ・ナ・ウペポを誕生させるに至りました。
これからの10年の夢
八ヶ岳ソーラー館における ささやかな教育
自然科学
2つのエネルギー
生存エネルギー 食料
生活、産業エネルギー 火と電気 再エネを学ぶ
社会
Chizu Yoshida Small Corner
文学
Ernest Hemingway’s small corner
横浜富岡
International Welfare House
捨て石となれば、援軍必ず来たれり
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